猫ばか日記☆ピノとレモ

我が家に来て10年になる最愛のキジトラ姉妹の日々

垣間見えてしまうもの

あまり意識して考えたことがなかったが、つい数日前に「大坂なおみは日本人に思えないから応援したくならない」という人がいて「えーーっ!?」とびっくりしたことでちょっと考えた。こういう人ってなんでもそうやって区別するんだろうなあ、きっと。生来なのか後天的に得たものかわからないが、私は人を差別(区別)するということがよくわからない。いい悪いでなく、色々な側面で(まあ、いわゆる外側で)様々な区別をつけて評価するというようなことに何の意義があるのか理解できないのだ。
実母はよく「うちは士分だから」と言っていた。彼女自身は農家の出だから父がそうだったのだろうけど。「お隣の奥さんはお金持ちだけど商人だから」などとも言っていたが、今時「士農工商」を持ち出すか?と正直どん引いて見ていた。母は勉強が出来るか否かでもあからさまに線引きをしていたし「〜〜なんか」という言い方をよくしていたし、世界の狭い実につまらない人だった。
結婚して思い知らされたのは婚家で味わった「血縁があるかないか」、世間の「未婚か既婚か」「子供がいるかいないか」など。三人の子持ちさんに「三人以上産まないと子育てしたとは言えないわよね」と同意を求められて「はあ?」と思ったこともある。そして笑えたのは、夫の収入や子供の学業成績で勝負しようとする滑稽な女性がたくさんいたことだ。自分の実力で勝負するならわかるけどさ、人の褌で相撲を取るようなことして恥ずかしくないのかね。夫や子供はあなたのアクセサリー?と思うこと頻々。うちは長男が世間的に出来のいい子だったので下の子の同級生の親に「お兄ちゃんは自慢の子でしょう」と言われたこともある。こいつ馬鹿か?と真剣に思った。我が子はどの子も可愛いに決まってんだろ。「息子は全員、自慢の子です」と言ったら変な顔をしてたな。
そんな風に、よくあるわかりやすい人種差別、男女差別のような大規模なものでなくても世の中にはそういう細かい差別意識〜〜少しでも自分が上から目線できるものを探してそこにしがみついて安堵しようとするための?〜〜がたくさんある。が、それって必要?意味ある?といつも思う。人間関係なんか気が合って価値観が似てたらそれでいきじゃん。そういう差別感覚を生きる指標にしているのが垣間見えると、一瞬でその人を心の中で切り捨てている私も、ある意味「区別している」のかしらねえ。


みんな、不安なんだろうな。だから何かに縋って安堵したいんだろう。だけど、そうやって自分が安心するために他者に不安を与えているかもしれない、とは考えられないのかな。自分は自分で完結できないのかな。オットは私を「絶対評価をする君は個を重んじる西洋型」と言う。「でも日本は相対評価なんだよ」とも。
だけどそれが人を不快にしたらあかんやろ。私はある時「すごく厳しい教育ママ」だと言われていた(らしい、親しい友人に聞いたことだから真偽のほどは不明)。小学校のあゆみもろくに見たことのない私が教育ママとは驚いたが、友人は「そうでも思わないと納得できないんだと思うよ、あなたが教育ママとは笑っちゃうけど」と言ってくれたが、勝手に間違ったレッテルを貼られるのは愉快ではなかった。


ねえ、わかる?区別とかレッテルとか、自分を安心させるために人を貶めたらその人が不愉快に思うんだよ。いい大人がそんなことしちゃ、ダメでしょう?